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大正初期、東京の京橋に「画博堂」という書画屋があって、そこの3階には同好の志が集まって持ち寄った怪談話をかわるがわる話し合うということがよく行われていた。
ある日、その画博堂に見知らぬ男がやってきて、「田中河内介の話」をしたいと言う。
田中河内介とは、明治維新の尊皇志士のひとりである。

その男は、「田中河内介が寺田屋事件の後どうなってしまったかということは話せばよくない事がその身に降り懸かって来ると言われていて、誰もその話をしない。知っている人はその名前さえ口外しない程だ。そんな訳で、本当の事を知っている人が、だんだん少なくなってしまって、自分がとうとうそれを知っている最後の一人になってしまったから話しておきたいのだ」と言う。
大半の人々が面白がってうながすので、その男が話を始めた。前置きを言って、いよいよ本題にはいるかと思うと、話はいつの間にかまた元へもどってしまった。
男の話は要領を得ず、気付くと同じ事を何度も繰り返し、何時まで経っても本題に入らない。

そのうちに、一人立ち二人立ちと皆その場を離れ、下の帳場で煙草などをやっていると、又あとから一人降りて来て、まだ「文明開花」をやってますぜ、と言う。
あの男、どうかしてるんじゃないかと笑っている。そのとき、慌ただしく人がバタバタとおりてきた。
誰もまわりにいなくなったその部屋で、前の小机にうつぶせになったまま、あの男が死んでしまったと言うのだ。
とうとう、河内介の最期はその人は話さずじまいであった、というのである。

この話は、国文学者の池田彌三郎(いけだ やさぶろう)氏が書いた「日本の幽霊」(中公文庫刊)に、池田氏の父君の実体験談として紹介されているお話で、典型的な「話すと呪われる」典型的な怪談である。
河内介の存在がきになったので私も調べてみた。


河内介の軌跡
田中河内介は実在する薩摩藩の出身で学があったため、明治天皇が幼い頃の養育係だったそうです。
寺田屋事件の原因となった尊攘激派による京都挙兵計画の中心人物の一人でした。
捕らえられた河内介は、薩摩に護送される事となり、海路大坂を発ち池田屋にて会談していた。
寺田屋事件のその後については、薩摩藩士22名については本国に送還され、また真木和泉ら他の志士達については、それぞれの出身藩に引き渡されています。ただ、引き渡し先のなかった田中河内之介親子と千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門(かいが みやと)の5人は、海路で薩摩藩へ向かいますが、田中親子は海上で斬殺され、死体は海に流されてしまいます。また、他の3人も日向上陸と同時に斬殺されています。なぜ、田中達が斬られてしまったのかは、よく判っていない。一説には、過激志士である田中を鹿児島に入れては、どんな騒ぎが起こるか判らないと懸念した島津久光が内命を下していたとも言い、薩摩藩の別の要路の指示だったとも言います。


殺害後に起こり続ける「河内介の祟り」
翌日、小豆島(しょうどしま)に漂着した二人の遺体は、後ろ手に縛られた上に、足枷をかけられていました。
二人は島民の手により手厚く葬られ、供養されましたが、その後、薩摩藩の周囲で「河内介の祟り」と言われる現象が頻発し始めます。

河内介が殺害する折、船中の藩士がみんな実行役を嫌がったので、仕方なくクジ引きで決めた。クジで実行役に指名された、柴山彌八(しばやま やひち)という藩士は尻込みし、弟の彌吉に河内介殺害を押し付けた。
河内介を斬った彌吉は後に発狂し、時々発作を起こした際に河内介の首を刎ねる身振りをした。見舞いに行って、河内介の最期に話が及ぶと、彼はたちまち発作を起こし、薄気味悪く笑ったという。

岡山県知事を勤めた高橋五六男爵の話では、河内介謀殺を指示したという男爵の友人の枕元に毎晩、河内介の亡霊が現れた。その為、その人物は発狂し、刀を抜いては柱や鴨居に斬りつけたりしていた。
その母親が心配して男爵に相談してきたので、邸内に祠を建てて手厚く祀る様に言った。その通りにしたら亡霊は現れなくなったという。


田中河内介の最後を語る最後の藩士
明治2年の事。明治天皇が、三条実美・岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允(桂小五郎)ら「維新の元勲」の面々を集め、無礼講の宴を催しました。
宴の中、明治天皇がふと田中河内介の寺田屋事件後の消息について、一同に問いを発したそうです。
左右の者は、頭を垂れて、誰一人答えられず、暫く沈黙が続いたそうです。
天皇の養育係の悲惨な末路も告げ難いものですが、父子を殺害させた薩摩藩の関係者がその場にいたので、尚更何も言えなかったのでしょう。
不機嫌になった天皇が重ねて尋ねると、側に控える小河一敏がようやく河内介の最期を語りました。(小河は、京都挙兵計画にも参加した河内介の同志でした。)
話を聞いた天皇は、河内介を大変哀れみ、感無量という体で眼を閉じ、沈黙にふけったそうです。
座は白け、天皇の退出と共に、散会となったそうです。


画博堂で起こった悲劇
『文藝怪談実話』に収録されている池田氏の「異説田中河内介」)には、「その後まもなく、主人夫婦が、あのスペイン風邪の流行で、相次いでなくなってしまったという。」とあるが、「読売新聞」には死亡記事と死亡広告が出ている
大正9年(1920)2月3日(火曜日)付第15389号には
画博堂夫妻逝く 京橋区柳町画博堂松井清七氏(三八)は、去月二十二日流行性感冒に罹り爾来。日本橋病院に入院治療中同三十日午後三時半死去せるが妻はつ子(三二)も夫の病気看護中同病に感染し遂に、一日午後三時半死去せり葬儀は夫妻同時に五日午後二時築地本願寺にて執行の筈。 

伏見界隈003005
寺田屋事件で犠牲になった伏見寺田屋殉難九烈士の墓。

新撰組
文久3年(1863)3月12日庄内藩士の清河八郎が提案した新選組の前身である壬生浪士組(みぶろうし)が、会津藩お預かりという形で発足したのが「新選組」です。中心となったメンバーは、徳川第14代将軍家茂の警護のために京都に上った幕府浪士組のうち、江戸帰還に反対し、京都に残留を希望した者達です。

京都挙兵計画
郷士清河八郎(新撰組創始者)は、京都における最も過激な勤王の志士である田中河内介(中山忠能の元家臣)と語らい、各地の勤王の志士を京都に呼び集め、薩摩藩の兵と共に倒幕の兵を挙げるという計画

あぁ、新撰組を思い出すとまたあのゲームがやりたくなってくる・・・。
あああ
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