ニュースと言うのは突然やってくるからこそニュースなのだ。
大きい出来事なんかは、事前に知らされたら面白くないだろう?


突如名乗り上げた天皇候補
終戦間もなくの昭和20年11月、連合軍総司令部(GHQ)に「我こそは、南朝の正統・天皇である」という内容の投書があった。
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年『明治22年』12月18日)は
日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
熊沢の主張をわかりやすく纏めてみた。
1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂。
前の天皇が退位し大覚寺統と持明院統が対立することによって南北朝時代に突入するのであった。

熊沢家は足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際、西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており
南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ南朝の後亀山天皇の子孫で、南朝9代目天皇である熊野宮信雅王に始まる家で熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって熊沢姓を名乗ったとある。



既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、その父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。

1945年(昭和20年)11月にGHQのマッカーサー総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が丸ノ内郵船ビル総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『ライフ』記者の目に止まった。GHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、AP通信、ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。
だが、彼に取り巻き利益を得ようと集まった支持者は、熊沢のために資金や公邸を提供した。なお、他に熊沢天皇と称する4名(そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇も数名)も現れた。
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1946年(昭和21年)5月に勢いづいた熊沢は政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。
そして、体制派の歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。
1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、多くの側近、それに妻子までに熊沢は見捨てられた。
なお、この選挙の際、熊沢は有名な竹内文書が信雅王が先祖から伝承した品や宝物としてあったが盗まれたと言った。


1951年(昭和26年)、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」は昭和史上初めての判決)。
その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。
1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1966年(昭和41年)に東京の板橋病院で膵癌のため死去。その死のニュースは外電に配信された。
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Life誌に掲載された一部
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