今回紹介するのは、怪談系都市伝説の金字塔ともいえる「ベッドの下の男」の話。
また、昔とは違う新しい情報や類話が未だ出て語られている…。


概要
マンションで一人暮らしをしている女性の部屋に友人が遊びに来た。部屋にはベッドが一つしかないので、自分はベッドに寝て、友人は床に布団を敷いて寝させることにした。夜も更けて寝ようとする女性に、突然友人は外へ出ようと誘う。あまりにしつこく誘う(コンビニに行こうと言いだし、女性が「一人で行けばいい」と言っても、どうしても一緒に行きたいと強引に誘うパターンが多い)のでしぶしぶ部屋を出ると、友人は血相を変えて彼女に「ベッドの下に包丁を握った男がうずくまっている」と言った、という話。
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類話
この「ベッドの下の男」は似た話が多くさらに少し改変を加えるなどのバリエーションが豊富になっている。
斧を持っていたり、鎌を持っていたり、アイス買いに行くくだりがあったり、「明カリヲツケナクテヨカッタナ」の話と混じっているパターンも存在する。
「ベッドの下の男」に関する都市伝説はかなり類話が多く、源流となっているのがアメリカの都市伝説とされている。
アメリカでは実際に1912年に『ベッドの下の男』(The man under the bed)という題名の映画が制作されており、映画「ラストサマー」がこの映画の元ネタとされているが、過去に映画が出ているのでこれが元とは断言できない。
アンダー012012年の映画「Under the bed」
日本の鎌倉時代の説話集『古今著聞集』にも、旅人が通りがかりの空き家に泊まったところ、室内に鬼が潜んでいることに感付き、それとなく外に停めてある馬の様子を見に行くふりをして家を出て難を逃れるという、類似の説話がある。このことから妖怪研究家・山口敏太郎は、この都市伝説の発祥地がアメリカとは断言できないとしている。


実際に起きた話
2001年1月18日に女子大生の部屋に合鍵を使い留守中に家に侵入した31歳の男がベッドの下に隠れているところを発見され逮捕されるという事件が東京都中野区であった。
被害者の女子大生は玄関先に隠しており、それが男に見つかり、密かに合鍵を作られていたのである。


噂話から危機意識の向上へ
1994年に文京女子短期大学で行われたアンケートによると、既に当時の女子短大生たちの間にはこの話が浸透している。また1998年には雑誌『ダカーポ』9月号にて、20歳代のOLから自身の体験談として同様の話が投稿されているなど、話も急速に広がっている。
このことから社会風刺を混ぜたこの都市伝説が空き巣などの防犯対策にもなっており、都市伝説も防犯に一役に買っている感じになっている。
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昔は火災などの事件は極刑(ほぼ死刑)であるぐらい火災は恐ろしいものである。
有名なのが「明暦の大火」と呼ばれるもの。
1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれ、延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。市街地の大半を焼失し死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。

昔は火を消すのが難しく、軒と軒がくっ付いていたり長屋が多かったために飛び火で他の建物に火が移ることが多かったためにかなりの犠牲者を出したと思われている。

最近だと歌舞伎町ビル火災(かぶきちょうビルかさい)は、2001年9月1日に東京都新宿区歌舞伎町の雑居ビル「明星56ビル(みょうじょう56ビル)」で起きた火災が有名で44名が死亡し犯人は未だ捕まっていない。
いくつかの情報がニュースなどで取り上げられてきたが11に起こった「アメリカ同時多発テロ事件」と重なってしまい、それからというものこの事件は闇に葬られてしまった。


大阪で未だ語られる怪談
千日デパート火災とは、1972年(昭和47年)5月13日、大阪市南区(現在の中央区)千日前の千日デパートで起きた火災です。死者118名・重軽傷者78名、ビル火災史上最悪の大惨事でした。
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千日デパートのあった場所は、かつては処刑場で、そこで処刑された人が偶然にも118人だった。
タバコの不始末で火災が起きたせいか、地下の従業員休息所でタバコを吸うときは、いつも肩が重くなる、 幽霊に睨まれる。
千日前でタクシー運転手が幽霊を見てドアを開けてしまう。
これは、タクシーが誰もいない場所でドアを開けるのも目撃されているそうです。ということは霊感のない人にも見えるのかもしれません。
近くの映画館で平日の昼間、数人しか客が入っていないのに、館長が来て「おお、今日は満員やな」と喜んでいた。
屋台のラーメン屋でラーメンをすすっていたら、のれんをくぐり、女の子が「おっちゃん、今日も仕事終わったら寄るからな」と声をかけてきた。
屋台のおっちゃんは「おぉ、待ってるで」と思わず返事をしたが、客から「今のあけみちゃんやん?」「おお、そうやな」「あけみちゃん、千日デパートの火災でこの前、死んだやん・・・」
近くの芝居小屋の役者が昼間歩いていると、路地に立っている女の子たちから、「最近、来ないやん、待ってるで」と声をかけられた。「おぉ、今度、寄る、寄る」と返事をしたが、「今の女の子たち、死んでんやん・・・・」とぞっとした。
「新耳袋」の著者で怪異収集家の中山市朗氏も千日前で様々な怪奇現象を語っている。


事件から数十年…。
そんな千日前の怪談話ですが、実はここ十五年ほどでめっきり減ってきているようです。なんででしょうか?亡くなられた方が成仏され始めたのか、事件が風化して人々の記憶から忘れ去られようとしているのからなのでしょうか。
怪談で語られる背景には痛ましい事件があることが多い。

現在あなたは何歳ですか?私は年齢と時代のギャップがあってないのでおっさんたちとしか話が合わないんですよww
あぁFlash黄金期はよかったなぁ・・・。
平成の初期に2ちゃんねるという今では一般人の声とも言っていいほど普及したネット社会
現在(2010年代)バナー広告はおしゃれなものが多くて様々な工夫がなされて魅了される商品ばかりであります。
初期のパソコン(ネット)広告はFlash形式で非常にシンプルな広告ばかりであった。


この話の主人公は某会社員。この会社員、まあ「A」さんと言っておきましょう
Aさんには隠れた趣味があったんですよ。

誰にでも言えない趣味ってある訳じゃないですか、今は普通に見てる人が多いので普通に受け入れられるのですが、
昔はアニメも漫画もキモイ存在という概念があった訳で街中で堂々と叫べる人なんて少ないですよね。
そんなAさんにも隠れた趣味があるわけですよ。
その趣味はというと今で言うグロ画像・死体画像を見ることだったんですね。私もそういったサイトは見ることはある。
そのAさんにはグロ画像仲間がいたそうなんですよね
グロ画像仲間とはメル友みたいな感じで実際に会ったことはないそうで。
ある日そのグロメル友からメールが届いたんですね。何だ?なんだ?っと思って見たら
「いやホントににすごいの発見した!!」って文面に書かれてる。
なんだろうっと思って聞いてみると

「ホントに凄い所見つけたんだよかなりのグロ画像が置かれてるサイト見つけた
入り方教えるからチョット来てみろよ 俺結構見進めちゃったぜ」

なんでもその入り口が黒いバナー広告みたいなんですね
まあそれだったら普通目立つじゃないですか
ぽつんと黒いバナーがあったら誰でも気に留めますよね
でもその友達が言うには 真っ黒な背景の所にあるからボタンがあるらしく凄い見つけにくいらしいんですよ 
ポインターが指のマーク変わるのでそれで偶然その人も見つけたって言う訳ですよ。

URL教えてっていって見てみると下の方に確かに反転させると黒いバナーがあり、そこをクリックして入ってみると確かにうっ…って感じのグロ画像が置かれてる訳ですよ
でも普段Aさんが見ているグロ画像のグロさと比べれば余裕な訳ですね
その開けたサイトもグロ画像がちらほらあるだけで周りは真っ黒。
下の方にどんどん行くとまた黒いバナーがあった。
そんな風に見ているとまたグロ友達からメールが来て
「ホントすげーよな!! 俺かなり先まで言ってるけどめちゃめちゃやべぇー!」
そんな感じでかなり興奮してるのが伺える
グロ画像友達の人のメールを察するに奥に行くほどグロさが増していくらしく、ある程度行ったら明日も会社だしやめようかなって感じで見ているとその先は、普段自分が見てるぐらいのグロさになってる訳ですね
まあここらへんで今日はチョット寝ようかなって事でAさんは就寝した。

次の日の会社から帰ってきたらまたグロ友達からメールが入っていて見てみると「すげーすげー」って昨日と同じような感じで興奮してる感じなんです
メールが届いた時刻を見ると帰宅する3時間前ぐらいだったらしく自分も興味があるので
早速見ようと思いポチッポチッって進めてると友達のメールの文面のとおりにグロさが増していってる
そしたらすでにもう自分が普段見ているグロ画像のグロさを超えていっていた
さすがになんかチョット怖くなってくる。

これだけのやばい画像をどこから見つけてくるんだ。犯罪の臭いしかしない死体画像がかなり蔓延してこの写真を撮るにはこの人はもう非合法な殺され方をしてる
もうグロを見まくったAさんは目が肥えてるので背景を見たらどんな風だったのか分かるらしくチョットこれは自分の耐えられるレベル超えてるなっと思って見るのをやめた。
そろそろメールの返信きてるかな?と思って見てもきてないんですね 
熱中してるのかな?っと思って気にしなかった。

さすがにこのサイトは犯罪の臭いがするって事でさすがに警察に通報したところ、その後に警察から1通のメールが着た。
「メールありがとうございました。先ほどの件なんですが実を言うと某公的機関が運営してるサイトなのです。
貴方はレベル5ぐらいで悔い改めて通報してきてくれたので今日のところは見逃しますけども
もう少し進んだところまで見ていたら記録をとってそれなりの処置をさせていただきました。」

体が震えあがった。
もうすこし進んでいたら恐らく消されていた。
どうなるか分からないがかなりの処置を取らされるところだった。
Aさんには一つ気になる事があった。
友達はどうしたのか…。

そのあと色々してみても連絡とれなくなったっていた。
もしかしたら友達はブレーキの効かない所までいって記録とられて危険分子だと判断されて、なんらかの処置されたんじゃないんだろうか?もしくはバナー広告にあった画像の一部になったのではないか…。


どうだったでしょうか?
おとり捜査みたいな感じですね
何罪だよって感じですが、まあそこら辺は都市伝説ですので細かいところは突っ込んじゃ駄目ですよ。

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大正初期、東京の京橋に「画博堂」という書画屋があって、そこの3階には同好の志が集まって持ち寄った怪談話をかわるがわる話し合うということがよく行われていた。
ある日、その画博堂に見知らぬ男がやってきて、「田中河内介の話」をしたいと言う。
田中河内介とは、明治維新の尊皇志士のひとりである。

その男は、「田中河内介が寺田屋事件の後どうなってしまったかということは話せばよくない事がその身に降り懸かって来ると言われていて、誰もその話をしない。知っている人はその名前さえ口外しない程だ。そんな訳で、本当の事を知っている人が、だんだん少なくなってしまって、自分がとうとうそれを知っている最後の一人になってしまったから話しておきたいのだ」と言う。
大半の人々が面白がってうながすので、その男が話を始めた。前置きを言って、いよいよ本題にはいるかと思うと、話はいつの間にかまた元へもどってしまった。
男の話は要領を得ず、気付くと同じ事を何度も繰り返し、何時まで経っても本題に入らない。

そのうちに、一人立ち二人立ちと皆その場を離れ、下の帳場で煙草などをやっていると、又あとから一人降りて来て、まだ「文明開花」をやってますぜ、と言う。
あの男、どうかしてるんじゃないかと笑っている。そのとき、慌ただしく人がバタバタとおりてきた。
誰もまわりにいなくなったその部屋で、前の小机にうつぶせになったまま、あの男が死んでしまったと言うのだ。
とうとう、河内介の最期はその人は話さずじまいであった、というのである。

この話は、国文学者の池田彌三郎(いけだ やさぶろう)氏が書いた「日本の幽霊」(中公文庫刊)に、池田氏の父君の実体験談として紹介されているお話で、典型的な「話すと呪われる」典型的な怪談である。
河内介の存在がきになったので私も調べてみた。


河内介の軌跡
田中河内介は実在する薩摩藩の出身で学があったため、明治天皇が幼い頃の養育係だったそうです。
寺田屋事件の原因となった尊攘激派による京都挙兵計画の中心人物の一人でした。
捕らえられた河内介は、薩摩に護送される事となり、海路大坂を発ち池田屋にて会談していた。
寺田屋事件のその後については、薩摩藩士22名については本国に送還され、また真木和泉ら他の志士達については、それぞれの出身藩に引き渡されています。ただ、引き渡し先のなかった田中河内之介親子と千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門(かいが みやと)の5人は、海路で薩摩藩へ向かいますが、田中親子は海上で斬殺され、死体は海に流されてしまいます。また、他の3人も日向上陸と同時に斬殺されています。なぜ、田中達が斬られてしまったのかは、よく判っていない。一説には、過激志士である田中を鹿児島に入れては、どんな騒ぎが起こるか判らないと懸念した島津久光が内命を下していたとも言い、薩摩藩の別の要路の指示だったとも言います。


殺害後に起こり続ける「河内介の祟り」
翌日、小豆島(しょうどしま)に漂着した二人の遺体は、後ろ手に縛られた上に、足枷をかけられていました。
二人は島民の手により手厚く葬られ、供養されましたが、その後、薩摩藩の周囲で「河内介の祟り」と言われる現象が頻発し始めます。

河内介が殺害する折、船中の藩士がみんな実行役を嫌がったので、仕方なくクジ引きで決めた。クジで実行役に指名された、柴山彌八(しばやま やひち)という藩士は尻込みし、弟の彌吉に河内介殺害を押し付けた。
河内介を斬った彌吉は後に発狂し、時々発作を起こした際に河内介の首を刎ねる身振りをした。見舞いに行って、河内介の最期に話が及ぶと、彼はたちまち発作を起こし、薄気味悪く笑ったという。

岡山県知事を勤めた高橋五六男爵の話では、河内介謀殺を指示したという男爵の友人の枕元に毎晩、河内介の亡霊が現れた。その為、その人物は発狂し、刀を抜いては柱や鴨居に斬りつけたりしていた。
その母親が心配して男爵に相談してきたので、邸内に祠を建てて手厚く祀る様に言った。その通りにしたら亡霊は現れなくなったという。


田中河内介の最後を語る最後の藩士
明治2年の事。明治天皇が、三条実美・岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允(桂小五郎)ら「維新の元勲」の面々を集め、無礼講の宴を催しました。
宴の中、明治天皇がふと田中河内介の寺田屋事件後の消息について、一同に問いを発したそうです。
左右の者は、頭を垂れて、誰一人答えられず、暫く沈黙が続いたそうです。
天皇の養育係の悲惨な末路も告げ難いものですが、父子を殺害させた薩摩藩の関係者がその場にいたので、尚更何も言えなかったのでしょう。
不機嫌になった天皇が重ねて尋ねると、側に控える小河一敏がようやく河内介の最期を語りました。(小河は、京都挙兵計画にも参加した河内介の同志でした。)
話を聞いた天皇は、河内介を大変哀れみ、感無量という体で眼を閉じ、沈黙にふけったそうです。
座は白け、天皇の退出と共に、散会となったそうです。


画博堂で起こった悲劇
『文藝怪談実話』に収録されている池田氏の「異説田中河内介」)には、「その後まもなく、主人夫婦が、あのスペイン風邪の流行で、相次いでなくなってしまったという。」とあるが、「読売新聞」には死亡記事と死亡広告が出ている
大正9年(1920)2月3日(火曜日)付第15389号には
画博堂夫妻逝く 京橋区柳町画博堂松井清七氏(三八)は、去月二十二日流行性感冒に罹り爾来。日本橋病院に入院治療中同三十日午後三時半死去せるが妻はつ子(三二)も夫の病気看護中同病に感染し遂に、一日午後三時半死去せり葬儀は夫妻同時に五日午後二時築地本願寺にて執行の筈。 

伏見界隈003005
寺田屋事件で犠牲になった伏見寺田屋殉難九烈士の墓。

新撰組
文久3年(1863)3月12日庄内藩士の清河八郎が提案した新選組の前身である壬生浪士組(みぶろうし)が、会津藩お預かりという形で発足したのが「新選組」です。中心となったメンバーは、徳川第14代将軍家茂の警護のために京都に上った幕府浪士組のうち、江戸帰還に反対し、京都に残留を希望した者達です。

京都挙兵計画
郷士清河八郎(新撰組創始者)は、京都における最も過激な勤王の志士である田中河内介(中山忠能の元家臣)と語らい、各地の勤王の志士を京都に呼び集め、薩摩藩の兵と共に倒幕の兵を挙げるという計画

あぁ、新撰組を思い出すとまたあのゲームがやりたくなってくる・・・。
あああ

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